
酒井 忠績(さかい ただしげ)は、江戸時代末期の大名、老中、大老。男爵。播磨国 播磨姫路藩第8代藩主。忠績は分家旗本5000石の酒井忠誨の長男であるが、姫路藩 姫路藩主酒井忠顕に子がないため、養子となり相続する。文久2年(1862年)、忠績は幕命により上洛した。京都守衛と京都所司代臨時代行の特命を帯びての入京であった。安政の大獄期に京都所司代に就任した酒井忠義 (若狭国小浜藩主) 酒井忠義(小浜藩主)は、井伊直弼暗殺後も引き続きその職にあり、罷免を朝廷から要求されていた。幕府は忠義を罷免し、後任として大坂城代松平宗秀を内定したが、宗秀も安政の大獄当時は寺社奉行の任にあり、しかも井伊直弼の信任が非常に厚かったため、朝廷は宗秀の所司代就任にも内諾を与えなかった。このため所司代は空席という、開幕以来の異常な事態となっていた。このため、9月末に牧野忠恭が後任の京都所司代として正式に承認されるまで4ヶ月間その任にあたった。

周布 政之助(すふ まさのすけ、1823年5月3日(文政6年3月23日 (旧暦) 3月23日) - 1864年10月26日(元治元年9月26日 (旧暦) 9月26日))は幕末の長州藩士。諱は兼翼(かねすけ)。政之助は通称である。変名に麻田公輔、松岡敬助などがある。68石取りの長州藩大組、周布兼正の五男として萩城下に生まれる。弘化四年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。しかし周布は天保の藩政改革を行った家老・村田清風の影響を受けた人脈として村田の政敵であった坪井九右衛門派の椋梨らと対立することになる。周布は、村田清風の路線を継ぎ財政再建、軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、また桂小五郎・高杉晋作ら、吉田松陰の薫陶を受けた若い人材の登用に熱心であったが、藩内の派閥争いに破れて、一時は失脚した。しかし、その実直な性格から多くの人望を集め再度藩政に復帰し、尊皇攘夷を掲げて藩政の陣頭に立った。
秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、1824年(文政7年) ? 1900年(明治33年)1月5日)は、江戸時代後期、幕末の会津藩の藩士。父は丸山胤道で次男。名は胤栄。字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)を正規の名前とした。会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校の日新館に学び、1842年に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、諸国を渡る。藩主松平容保の側近として仕え、1862年に容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。遊学時代には薩摩へも渡り、会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。佐幕派の反対を受け、65年には左遷されて蝦夷代官となる。